随筆「薄夜」
戦争
1958年にあった二つの中国による金門島砲撃戦は書いたことがある。ウクライナのことを見ているとそんなのも思い出す。昭和33年ころの戦闘だったので中華人民共和国には原爆はまだなかった。それから、クリミア戦争というのを調べたこともある。これは日本の幕末のころのもので帝政ロシアがにぎやかにやったそれである。
うちにはランケの「強国論」をもとに書かれた戦争の書物などがあり、いまは手にすることもなく部屋の中のどこかに捨てられている。
いまは本も読まなくなった。「神曲」を書いていたころは、図書館へ行き必要なものはコピーし持ち帰っていた。これも膨大な量だった。
あの時代がなつかしい。夕方に寝て深夜1時頃に起き書き始める。一間だけのボロアパートでやっていたが一日執筆は4時間くらいが限度だった。あとは食うか寝るかだけの生き方であった。たまに図書館で調べものに出かけそれに半日は使っていた。これは六十代前半にあった情熱である。
あれだけの学術的知識を入れ本を書くのだから、それを身につけるだけで相当疲れてしまった。数百万語の本になったが、これを書くことより基になる知識を得ることのほうが大変だった。だが、これは楽しい日々であった。
日米戦争を舞台に物語を作っているから楽しい内容というものではないが、そばで読んでいた編集長は「あの場面はいいですねえー」「すごくきれいです」とか、京都寂光院雪の坂道の描写を喜んでいた。美しい女性の下駄に雪がからみ歩けなくなり、その女性は裸足で坂道をのぼっていく。戦争のかなしみをその観点からも書いた。
ウクライナもいまは雪だろう。男たちがつくる悲劇と絶望のなか、そこを歩く女性たちに明日の希望があることを願う。