大事にされなかった生き方、大切に守られる女

世間のどこにでもある女の人生、泣き笑いしながらのそれを書く

随筆、詩を書こうと思います。
大事にされなかった人生、大切に守られているいまの人生、明日はわからないけれど、それを書くこの作品は残そうと思います。

随筆「薄夜」

         


          


           心の味覚
もう駄目か、と、そう思った。あきらめて駄目だなどと私は言わない。なにかの機械が耐用年数切れかメンテナンス不足で止まる。人間が死ぬのはこれと同じである。
妻を愛する心になんの意味がないときもある。機械相手に、止まらんでくれ動いてくれと、そう呪文を唱えているようなものだ。私は幼稚な馬鹿でない。


この6年余、妻の命と身体機能を、機械の手入れのように面倒をみてきた。医者が多少手助けしてくれた部分もある。だが、今回の危険な失神、これに医者はなんの役にも立たなかった。
「おい、なんとかならんのか」
「そうならないようにと薬を出しているいるのですが」
「そうか」
薬局にいる薬剤師だな。アホらしい。
できないことはできませんと言えばよろしい。ブライドか金を稼いでいるせいか知らんが、私に呪文のようなものを唱えないほうがいい。まかり間違えれば大変な事が起きる。心筋梗塞のとき(お前らバカ、かあ)と、下をむき座っていた医師を怒鳴りつけている。これは患者である機械から説教されたようなものだ。アホらしい。


危険な失神、私はこれを四度やっている。初回は30年前くらいで海の堤防に飛び乗った瞬間に1メートル下の路上にそのまま落ちている。受身もなにもなく後頭部を強打した。だれもいなかったのでどれくらい失神していたのかも判らない。作品を書いていた10年前の冬の日、寒さで体が固まっていたのか下に落ちた物をひろおうとしてそのまま失神した。この時も一人だった。何分後かに動けるよになり死とは快適なものであると感じた。一人であったからそう思った。去年か、自宅の台所で2回あった。妻が部屋にいた。目のそばに深い裂傷ができたがそのままにした。死の快適さや生き残った何か、そんなものはなかった。やはり一人でなければ味わえないものらしい。
心筋梗塞で死ぬ寸前になったがそこは病院でいろいろ人間がいた。これが不愉快でなく、その前に、理由があり看護師までに牙をむいた。
やはり人間は一人のほうが気楽である。

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