大事にされなかった生き方、大切に守られる女

世間のどこにでもある女の人生、泣き笑いしながらのそれを書く

随筆、詩を書こうと思います。
大事にされなかった人生、大切に守られているいまの人生、明日はわからないけれど、それを書くこの作品は残そうと思います。

核兵器

ウクライナの件で書いたのは一年前にもなる。まだやっている。この間、その他の人間には生きるのにそれぞれの戦いがあった。そこでやっているのは、もっと多くのものがあり大きな苦労もある。戦争というのに屁理屈をつけ夢中になっている、そこは、そこだけの問題でやっているのか。それとも人類に何かあるからしていることなのか。説明してみい。
だが、昔のようにその火は大きくならずに世界大戦にならない。昔やったことも些細な個人的なようなものであったがその実態がなんであったか、その頃には知る知性が人類になかっただけである。
今はあれより賢くなっている。だが、核の炎で地球を焼き尽くそうとするキチガイの狂気を笑ってはいられない。そんなバカげたことが一部の人間にできるのか、それは、国民の知る以外の権力がどこかにあるとしか思えない。
でも、ロシアの大統領はこれを口に出している。そこの国民もこれを本気で言っているのか、政治というものがそこの国に有るのかどうかも疑わしい。


こう書けばくだらんナゾナゾのようなものだが大統領という者がそう言うのだから余計に首をひねる。あの危険な玩具は抑止力とかの屁理屈で生産をかせねた物だが、それなら黙って持っていればいいのだが、国営テレビでこれを宣伝するものでない。


しかし、玩具はこの国だけが持っているものでない。他の国の指導者たちはプーチンの立場になれば何を言うのか、そこに、驚くような屁理屈はないだろう。そんな物を選出したのは国民たちであろう。人間の運命はこれしかないのであろうか。


やっかいな、この玩具は、日々苦労して生きている人類の何かに役立っているのだろうか、それは問うにも馬鹿々々しい。

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