随筆「薄夜」
罪と罰
元総理が暗殺された。なにやら宗教団体がにぎやかになっている。その名前には約20年前の記憶があるが、この当時の代表をやっていた男の氏名も顔も忘れた。当時、何十億かの取引をやろうとしていた。
私の人生もまだ熱い季節だったのだろう。取引は成立しなかったが、あのとき金銭で裏切りがあったなら今回の犯人のように血の決裁があったかもしれない。
人は老い、心も静かになる。そうなるのは自分からやるものである。武器などを作り殺意をもてば人は殺せる。老人になってもそれはやれる。社会にはそんな事件も多い。
この犯人は四十そこそこで老いてはいない。その熱い季節に起きた犯行であるがこんなのはどこにでもある。
なんの判決がでるのか知らんが、死刑のそれであれば、おのれへの血の決裁までは長い時間が与えられる。その長さのなかで心は静かになっていく。自分でそうするのではなく死刑囚の房にはその時間しかない。おそらく、そこで、起こしたことも忘れていく。
私はそんな現場をみたことがある。
熱い血が起こしたことも、それに信念があったとしても、なにもかも無意味に消えていく。人生もそうなる。
死刑囚をやっている者たちはいろいろ考えるのだろうが、外からながめている私には無意味な人生としかみえない。無意味に生きていくのが苦痛なのかどうなのか本人でないから判らない。この犯人がなんの判決を受けるのか知らないが、死刑でなくとも、そこには長い無意味の人生がある。それに至ったそこまでの人生も消えていく。
どうせ消えていくなら、恨みなんかで人を殺さなかったらいいのにと思う。その反省や悔いも時間が消していく。愚かなことをしたものだ、これも、そうなる。
人生というのをこうして客観的にながめれば簡単なものであるが生きるのは間違いだらけのそれであろう。
ウクライナでやっている殺戮もその犯人たちを死刑囚の房にいれれば罪を裁くことはできるのだがそれもやらん。罰もうけない人間に歴史があることこそ絶対に許されない罪であろうな。