大事にされなかった生き方、大切に守られる女

世間のどこにでもある女の人生、泣き笑いしながらのそれを書く

随筆、詩を書こうと思います。
大事にされなかった人生、大切に守られているいまの人生、明日はわからないけれど、それを書くこの作品は残そうと思います。

随筆「薄夜」

        見送り人
授業中に学校のドアがあけられ、用務員から教師、そして私へと母親の危篤が知らされた。わざと、2時間かけ自宅に戻った。母の死を見るのがつらいからそうしたのではなかった。見ても意味なかったからそうした。また、告げる別れの言葉などありもしない。2年もかけ生き地獄をやった母は、それを見ていた小学生、これに別れなどいらない。この母は苦しみながらそばにいる子供になんど別れを告げたか、私のほうは母をとうにあきらめていた。そんな二人に最後の日など意味ない。また、母は死ぬだいぶん前から意識がなかった。まだ意識のあった夜に、
「ワシは、もうだめた」
と、涙さへでない身体で、いつものように言っていた。毎晩聞いていたのでどれが最後の言葉であったのかわからない。


私のほうが先に死ぬかもしれないが、妻との別れの日も近くなった。妻は毎日危険な失神をするようなった。昨夜は失神のあと多量のビールを飲み、隣から物凄いうめき声が聞こえてきた。このあいだはそんなときに手首と首筋を刃物で切った。昨晩は私も起きていた。物凄い声がしたので、「あっ、やったか」と前の出来事をすぐに想定した。が、ビールの空缶がべットの下に散乱していただけである。酔いで自殺するチカラまで出せなかったのかもしれない。


この破壊的日常生活はもう限界かもしれない。自分の意志でやっている事でないから止めるのもできない。このボロアパートでどんな最後の日が来るのか知らないが、このまま成り行きにまかせようかとも思う、
妻も私の母親のようにいま地獄をさ迷うているのかもしれない。母のときも私の言葉にほとんど反応しなかった。こうなると母親というより人間を相手にしているようだった。妻もそれに近くなっていく。


私の死ぬのはだれにも関係なく、だれの言葉も不要であり、すべてを静かに無視するが、見送る側に立つと、なんで人の死がこんなにも賑やかになるのか人間とはやっかいでむつかしいものである。

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