大事にされなかった生き方、大切に守られる女

世間のどこにでもある女の人生、泣き笑いしながらのそれを書く

随筆、詩を書こうと思います。
大事にされなかった人生、大切に守られているいまの人生、明日はわからないけれど、それを書くこの作品は残そうと思います。

随筆「薄夜」

           橋
昨日の、娘来訪から一日がたち余韻もさめてきた。久しぶりに家族・肉親というものを思い出した。同行された男性もご自分のそれをずいぶん話されておられた。
10年以上前になる随筆「冬海」には母親だけを書いている。家族は父親と四人の兄弟で合計5人であったが、母の死んだ日、私をのぞく、その四人は人間とは思えない死体のそばで泣いていた。
その日、母が死ぬ時間は知っていた。何時だったかもう忘れたが、私はそれを知りながら学校に行った。授業中、教室のドアが用務員により開らかれた。(やはり来たか)、引き潮の時刻だった。来るのはわかっていた。教師がそばに来た。これが母の死を告げた。私は返事もしなかった。
自宅まで川の土手が直線でつづき、それを行くと30分もあれば着く。2時間だったか、原爆ドームの横も通り、潮が引き川底が出たそれを見ながらゆっくり帰った。いつも見る元安川とおなじで気持ちにも乱れはない。原爆スラムにある自宅には死体しかないのだからあわてることもない。また、2年をかけ死体になっていく母親をずっと見てきた。
「ヒロユキ、なにもわるいことしてないのに、わし、なんでこないになっていくんぢゃろ」
2年間も、夜になると、私を呼んだ。胃がんの全摘をおえ、まだ肉もあった身体が、二年もたてば骨と皮になり黄色い目玉になり息だけはしていた。寝ダコはつぶれ背中は血まみれになり、初めの頃は痒いから掻いてやったが。もう触れることもできなくなっていた。
母から言ったのか、家族がそこへ押し込んだのか、屋根裏部屋に敷いた布団のそこだけで死ぬのを待たされていた。私一人で寝起きしていた場所に、いつからか、自分の足で来たのか誰かが運んできたのか、そこに母がいた。そうなると私は看護婦みたいなもので、だが、この小学生は何もできなかった。新聞配達をはじめ給金をもらい缶詰を買い母の枕元に置く、それが精一杯で私にやれることだった。


「おまえら、なんで泣いとるんなら」
四人にむけ殺意を込め、2時間かけ帰ったバラックの自宅で、最初に言った。ポケットにはデパートで盗んだナイフがあった。
母の死体に布団はかけられていたがまるで膨らみのないそれだった。いつも見ていたが、それとはなんの関係もない奴等が今いる、これには殺意が爆発した。
・・・・・・
五月、川端に柳がゆれ
あつい夏、死んだ者の数だけ
川に灯はながれ
死者だけの美しい町だつた


この「橋」という詩を書いたのは小学校の教室だったが母が死んだあとかどうかいまわからないが、人を殺すという感情ができたのはあの日に間違いなさそうである。

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