大事にされなかった生き方、大切に守られる女

世間のどこにでもある女の人生、泣き笑いしながらのそれを書く

随筆、詩を書こうと思います。
大事にされなかった人生、大切に守られているいまの人生、明日はわからないけれど、それを書くこの作品は残そうと思います。

随筆「薄夜」

          学問
私は二十歳のころに薄々気ずいていたが、ここ10年余り物を書く時間、そればかりが出来るようなりあらためて勉強もでき、あることに確信がもてるようになった。
約50年前にローマクラブというのが発表した論文のようなものを読んだ。それは繁栄の限界に警鐘を鳴らすものだった。


印象深いのに、地球の土地をどんどん掘っていったらどうなるか、の、それだった。あの論文ではすでにボーキサイトなどは無くなっている筈である。科学技術の進歩もありまだ採掘できているのかどうか知らんが、人間の掘れる深さなどしれたもので、どこもかしこをも掘り返したところでいずれ何も出てこなくなる。


プレートテクトニクスという学問にも関心したことがある。だが南極や宇宙がどうのこうの言うあれには笑った。そんなものは人間の冗談である。


1948に生まれたのであれから73年になる。生まれる前に人間たちが何をやったか、それも専門書などをパラパラめくりある程度判った。なんの学問があったのかも多少知ったが、それを生み出したのはご苦労なことであった。
あのバカげた大戦もやめ戦後、繁栄の欲望に障害は少なくなった。米国で発明された経済理論はノーベル経済学賞を与えられ、その都合よさは繁栄を加速させたようだ。あれはなんの理屈なのか専門書もめくってみた。


なにかに書いたことがあるが、人間の学問はすべて消えた、と、やったことがある。
戦後の、私が生きた時代、その70数年間、こんなにも速く流れていく人類の歩みは過去になかった。あそろしい欲望である。
繁栄への学識、そんなものは滅亡の道具にしかならない。だが、繁栄の危険性を教える学問は小学校の教科書にもない。新しい学問はそこから芽生えるのに、なにか都合でも悪いのか、子供たちの未来に遊園地の光景しかみせない。


戦後第3次産業である遊びを商売とするそれが爆発的に蔓延した。人生とは娯楽であるとそう信じさせる学問でもあるのか、それこそ新しい学識であろうな。

×

非ログインユーザーとして返信する