大事にされなかった生き方、大切に守られる女

世間のどこにでもある女の人生、泣き笑いしながらのそれを書く

随筆、詩を書こうと思います。
大事にされなかった人生、大切に守られているいまの人生、明日はわからないけれど、それを書くこの作品は残そうと思います。

随筆「薄夜」

           静寂
妻との結婚生活も6年の年月がすぎた。その間、本来の文章や本格的な作品はなにも書いてない。これは妻との生活に夢中になったのではなく、書くことはもういいだろう、と、そんな気になったのかしれない。
しかし、このブログにも妻との暮らしなどは書いてきた。妻の写真も多く掲載している。妻はその写真でもわかるように、いい女、であるかもしれない。掲載許可のギリギリであるかなり色っぽいそれも投稿したのでこれのファンもいたかもしれない。亭主であり性的関係も当然あり、私からみてもいい女に違いない。


最近、ボロアパートの炊事場にもう一つ部屋を作りそこで生活をはじめた。布団一つ敷くのがやっとの狭さである。トルストイのように家出ではしなかったが、物を書く人間は本来の自分に還りたいからこうするのかも知れない。
一人になりこうして雑文を書くようになったがなんの目的もない。


ただ、こうして頭をひねりながら文章を書いていたら一人でいることを感じる。人間は一人で生きる動物なのかもしれない。同じ仲間のサルはそうしないのに知能の高いぶん一人で考える時間が必要なのだろう。


去年、心筋梗塞で死ぬところだった。だが、あれで人生観になんの変化もなかった。この人生は生死の中間だったのでその片方へ転んでいくなど気にもならない。
願わくば、静かな文章世界でそのまま死ねたらいいのだが、そんなものはどうなるか判らない。でも、その死は何時どんな場所にやって来てもかまわない。人生はそんなものであった。


残る妻のことを想えばそれへの愛情は尽きないが何をやってもどうなるものではない。生きている価値をむさぼり喰おうが満腹になることはない。それより隣の部屋から妻を感じているほうがいい。この手の届かない至福、人生はそうであった。小学生のとき人生はそんな物であると教養を身につけた。だから、なんども離婚して美しい女性たちは手のひらから落ちていった。悲しみと苦痛が訪れるたび、その地獄のなか、私は本来の自分に還っていった。
いまの妻を最後の人だと信念に決めていたのにまた同じことをやっている。こんなのを運命などと言いたくないが、なぜか、生き方はこうなってしまう。

×

非ログインユーザーとして返信する