大事にされなかった生き方、大切に守られる女

世間のどこにでもある女の人生、泣き笑いしながらのそれを書く

随筆、詩を書こうと思います。
大事にされなかった人生、大切に守られているいまの人生、明日はわからないけれど、それを書くこの作品は残そうと思います。

随筆「薄夜」

妻のブログでこれを書いている。ほかで作ろうとするのも面倒だからそうしている。もともと横着な性格なので細かいことはやらない。


          ひとつの命
物心ついたときから人間嫌いだった。
生活環境からそうなったのでない。生まれつきであろう。そうかといって別の物に夢中になったわけでない。
無気力な人生ではなかったが全力で走ってきたように思う。


戦後昭和23年に神戸三宮で生まれた。兵隊から帰ってきた父親がそこに生活の場をみつけたからだ。そこも焼野原から復興していたがまだまだお粗末な社会であった。
闇市というのがあってそこで衣類食糧などの生活必需品を売っていたらしい。品物は軍需倉庫から盗んできていた。
神戸国際ギャング団というのがあって父親はそこの一員だった。


私は数才の子供だったのでその現場はしらないが、この話は父親たちが酒をのみながら昔話をしていたから知っている。命がけの生き方だったようだが。時も過ぎれば酒宴で楽しそうにいろいろやっていた。


朝鮮戦争勃発で米軍の邪魔になりギャング団は一掃され父親は広島へ逃げた。そのあとから残党たちも追ってきたようだ。
爆心地の北側に原爆で吹き飛びただの荒地があった。以前は陸軍の練兵場だったのだがそこは広大な土地であった。人々はここに小屋を建て群がっていた。ようするにヒロシマ原爆スラムというやつだ。
父親はここへ勝手にバラックを作り、家族6人は暮らしはじめた。電気だけは広島市も敗戦責任を感じていたのかきていたが、飲料水はなく生活排水はすぐそこの太田川に垂れ流していた。朝鮮人たちも多くかれらは豚を飼い密造酒のドブロクを作っていた。小学生の私はそれをよく飲んだ。このころは小学中学年になっていたからその酒の味はいまも記憶に残っている。


大人たちは悲惨な暮らしをやっていただろうが子供の私は別な物をみていた。人間という生物に興味はうすれ、この貧民の地に飢えや悲哀はあったろうに、それは見えてこなかった。それでも、ただ一つの命だけからは逃れることはできなかった。母親が2年の月日をかけた生き地獄ののちに死んでいった。
しかし、このことが私の人間形成に影響があったとは思われない。生まれてきて当然に見えるひとつの光景であろうと、小学生の私にはそう感じられた。


この記憶は人生に刻まれていったが、生きるとは人間とは、地獄を行くようなものだと知ることができた一つであった。

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