大事にされなかった生き方、大切に守られる女

世間のどこにでもある女の人生、泣き笑いしながらのそれを書く

随筆、詩を書こうと思います。
大事にされなかった人生、大切に守られているいまの人生、明日はわからないけれど、それを書くこの作品は残そうと思います。

随筆「薄夜」

       霞み、ぼやけ滲む
小学校からの帰り道にあった市立図書館で知った「中庸」というのが書いてある本の記憶が人生のところどころに現れてくる。そのなかにあった文章で、一つの水田か畑だったろうか、そこからの収穫で何人が生きらどんな争いがあるのかこのことを記述した箇所があった。これがずっと人生にあった。
「四書」とかの書物に興味があったのでなく、孔子にしてもそうだが、全体の中身を理解しようとしなかった。勝手に、収穫うんぬんとかのそれだけに拘ることになった。中庸、西洋でもアリストテレスが似たようなことを言ってたらしいがよく判らない。


ハタチころになり、人間というのに興味をもちこれの繁栄はそう長くは続かないだろう、との、こんな疑問でそれに関する本も読むようになった。そのときも中庸という概念はあらわれた。
その後、忙しくて本を読むこともなくなり金を稼ぐこれに追われる人生になってしまい、飲み食いも贅沢になり車や船の道楽までするようになった。そんな馬鹿な暮らしのなかにも中庸があらわれた。
賑やかな人生には厳しい日もある。火もない住まいにうずくまりずっと下を向いていたときもあった。このときに出て来たのは(何も求めない中庸の心)、そんな勝手な解釈だった。
日本の武士道精神は体の鍛錬や臨済宗で知ろうとしたがそんなときも出てきた。カタナの修練や禅宗の過酷さで激しい気持ちにもなるのだが中庸というのが心をやわらげてくれたこともあった。


だが、私の信条はぼんやりとしたもので、人生はいつも霞みぼやけ滲むそんなものであった。一つのものに支えられ何かの仕事をやるというタイプではなかった。だから中庸というものを深く理解する必要もなかった。
中庸、あの図書館でしっかり勉強していれば人生はどうなっていただろうか、と、それにも興味はない。人類というのもこんなものであろう。

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